三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実
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日本
豊島圭介
ナレーター:東出昌大
オフィシャルサイト
2020映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」製作委員会  SHINCHOSHA

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実

昔の方がよかったなんて言いたくもないし、思ってもないけど、私が生まれる前のドキュメンタリーを見て、今の方が退化している部分があるんじゃないかと思いました。この頃より技術は進歩して、情報はいくらでも簡単に手に入れられれるようになり、言論の自由は(多分、まだちゃんと)ある(はずだ)し、SNSなどを通して自分の意見をすごく簡単に世の中に発信できる世の中になったと思います。

右翼や左翼は時代を経て変化するものもあるだろうけど、右的な思想というのは保守的、左的なものはリベラルで、右にはナショナリズム、ファシズムのニュアンスが含まれていて、左には共産主義、社会主義的なニュアンスが含まれている、というのが私の理解です。でも、今、ネットの世界にあふれているネトウヨとかパヨクって呼ばれている人たちの多くと、本ドキュメンタリーの中で出てくる学生たちや三島由紀夫は、全然質が違うように思えました。

ネットの上の匿名のネトウヨやパヨクの人たちの、果たしてどれだけの人が発している言葉に責任持って、きちんと自分の言葉で自分の持つ信条を語れているのでしょうか。右がいいとか左がいいとかは、どちらが正しいとかでなく、ただの信じる思想の違いだと思います。どちらも、最終的な目標は幸福になることであり、その過程が違う。違うからダメではなく、違うからこそ、その違いを受け入れて、冷静に相手の主張にも耳を傾け、自分の主張を相手に伝わるように言葉にすることでさらなる成長へとつながる建設的な「討論」になるのだな、と本作品を見て思いました。



今のネット上の匿名での意見の言い合いは「討論」ではなく、誹謗や中傷や暴言を吐いて相手を傷つけることを目的になっている場合が多い気がします。「言葉」の使い方、何か違うと思います。「ご飯論法」っていう言葉がありましたが、揚げ足をとったり、言葉の持つ意味を捻じ曲げたり、言葉じりで逃げる政治家が多い気がします。「言葉」の使い方、間違っていると思います。

今のどれだけの人がこのドキュメンタリーの中で、学生と三島が交わしているような討論をできる人たちがいるのでしょうか。どれだけの政治家が、自分の言葉できちんと自分の思想や信念を語れるのでしょうか。もしかしたら、そもそも「言葉」が違うのではなく、本質となる「思想」やその思想の先にある「目標」が、間違ったものなのかもしれません。

右寄りの人だって、左寄りの人だって、思想は違うけれど、自分が生まれた国を良くしたい、っていうのが目標なはずなのに、相手を負かそうというのが目標になっていると、論じている内容もおかしなものになりますよね。政治家だって、本気で国民のために国をよくしようと思わず、私欲を増やそうと思っていたとすれば、そんな政治家の言葉は私たちには伝わりませんよね。

70年代の学生運動のことも三島のこともほぼ知らず観て、「50年目の真実」が何かわからなかったけど、いつの時代だって右とか左とかそんなこと関係なく、大切なのは右とか左とかでもなく、健全な「討論」には健全な「言葉」があるべきだと。50年経ってこの時の討論をみて、私が気づいたことです。「言霊」という言葉があるくらい、言葉ってやっぱりその人の内から出てくるものを表しているのだなと思いました。

言葉を操る作家だった三島由紀夫の思想と、若く希望と情熱に溢れた青年たちの交わす討論は、お互いが尊重しあい哲学的で素晴らしく知的。「ことば」のもつ力、発した「ことば」に責任を持つということ。三島由紀夫。彼の思想に同意するかと言われれば、私は多分ほとんど同意できないと思いますが、それでも三島由紀夫という人は発する言葉と行動に矛盾がなく、自分に偽りのない人生を生きたのだろうなと思いました。そこは、かっこよすぎるくらいかっこいい。

いろいろな視点から考えることのできる作品だと思います。三島由紀夫という人について。彼の思想や生き方。香港のデモをひと事のように見ていたけど、50年前の日本でも熱く闘う若者たちがいたという事実。右も左も、結局最終的な思いは一緒だということ。ネットで自由に適当な言葉を発することのできる今だからこそ、伝わるものもあると思います。大切なことは、何なのか。ぜひ、映画館にてご鑑賞ください。